HISTORY OF TAIWAN

原住民のモチーフ

台湾人の祖先 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。

清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。

この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

大陸の内戦と台湾の「省籍矛盾」

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化 戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、客家人:約15%、外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人 【国土面積】3.6万k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル 【2015年訪日観光客数】367万人

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

(百萬人)

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土面積

(k㎡)

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

(十億ドル)

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】約4兆6163億ドル

 

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

原住民のモチーフ

台湾人の祖先 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。

清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。

この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

大陸の内戦と台湾の「省籍矛盾」

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化 戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、客家人:約15%、外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人 【国土面積】3.6萬k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル 【2015年訪日観光客数】367万人

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

(百萬人)

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土面積

(k㎡)

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

(十億ドル)

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】約4兆6163億ドル

 

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

原住民のモチーフ

台湾人の祖先 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。

清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。

この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

大陸の内戦と台湾の「省籍矛盾」

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化 戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、客家人:約15%、外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人 【国土面積】3.6万k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル 【2015年訪日観光客数】367万人

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

(百萬人)

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土面積

(k㎡)

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

(十億ドル)

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】約4兆6163億ドル

 

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

原住民のモチーフ

台湾人の祖先 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。

清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。

この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

大陸の内戦と台湾の「省籍矛盾」

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化 戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、客家人:約15%、外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人 【国土面積】3.6万k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル 【2015年訪日観光客数】367万人

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

(百萬人)

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土面積

(k㎡)

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

(十億ドル)

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】約4兆6163億ドル

 

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

原住民のモチーフ

台湾人の祖先 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。

清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。

この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

大陸の内戦と台湾の「省籍矛盾」

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化 戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、客家人:約15%、外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人 【国土面積】3.6万k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル 【2015年訪日観光客数】367万人

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

(百萬人)

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土面積

(k㎡)

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

(十億ドル)

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】約4兆6163億ドル

 

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

原住民のモチーフ

台湾人の祖先 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。

清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。

この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

大陸の内戦と台湾の「省籍矛盾」

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化 戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、客家人:約15%、外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人 【国土面積】3.6萬k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル 【2015年訪日観光客数】367万人

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

(百萬人)

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土面積

(k㎡)

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

(十億ドル)

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】約4兆6163億ドル

 

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

原住民のモチーフ

台湾人の祖先 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。

清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。

この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

大陸の内戦と台湾の「省籍矛盾」

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化 戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、客家人:約15%、外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人 【国土面積】3.6万k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル 【2015年訪日観光客数】367万人

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

(百萬人)

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土面積

(k㎡)

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

(十億ドル)

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】約4兆6163億ドル

 

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

ウーライのタイヤル族

台湾人の祖先

 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ

 オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり

 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波

 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。

現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透

 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

大陸の内戦と台湾の「省籍矛盾」

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化

戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、客家人:約15%、

    外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人 【国土面積】3.6万k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル 【2015年訪日観光客数】367万

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

百萬人

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土

面積

k㎡

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

十億ドル

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015

訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】約4兆6163万ドル

【2015年訪台観光客数】162万人

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

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ウーライのタイヤル族

台湾人の祖先

 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ

 オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり

 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波

 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。

現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透

 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

大陸の内戦と台湾の「省籍矛盾」

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化

戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、客家人:約15%、

    外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人

【国土面積】3.6万k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル

【2015年訪日観光客数】367万人

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

百萬人

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土

面積

k㎡

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

十億ドル

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015

訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】

  約4兆6163億ドル

【2015年訪台観光客数】

  162万人

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】

  約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】

  499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】

  約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】

  400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】

  約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】

  152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

HISTORY OF TAIWAN

ウーライのタイヤル族

台湾人の祖先

 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ

 オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり

 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波

 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。

現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透

 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

大陸の内戦と台湾の「省籍矛盾」

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化

戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、客家人:約15%、

    外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人

【国土面積】3.6万k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル

【2015年訪日観光客数】367万人

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

百萬人

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土

面積

k㎡

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

十億ドル

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015

訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】

  約4兆6163億ドル

【2015年訪台観光客数】

  162万人

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】

  約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】

  499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】

  約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】

  400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】

  約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】

  152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

HISTORY

ウーライのタイヤル族

台湾人の祖先

 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

最初の領有者はオランダ

 オランダ領有時代

(1624年 - 1662年)

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり

 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波

 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。

現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透

 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

大陸の内戦と

台湾の「省籍矛盾」

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化

戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、

    客家人:約15%、

    外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人

【国土面積】3.6万k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル

【2015年訪日観光客数】367万人

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

百萬人

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土

面積

k㎡

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

十億ドル

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015

訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】

  約4兆6163億ドル

【2015年訪台観光客数】

  162万人

■中国の基本データ

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】

  約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】

  499万人

■韓国の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】

  約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】

  400万人

■香港の基本データ

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】

  約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】

  152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人

【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人

HISTORY

ウーライのタイヤル族

台湾人の祖先

 先史時代(5万年~)

台湾には旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)より人類が定住していたことが、考古学調査により確認されています。

7000年前頃からは、南島語族の原住民が台湾に移住し、この人たちが台湾最初の住民であると考えられています。アミ族など現在台湾に16あると言われている原住民の祖先はこの人たちです。

赤崁楼

最初の領有者はオランダ

 オランダ領有時代(1624年 - 1662年)

大航海時代にオランダとスペイン(1626-1642・北部)が東アジアにおける貿易拠点として港など台湾島の一部を領有しました。このときの台湾島は中国明朝にとって「化外(皇帝の支配する領地ではない、中華文明に属さない)の地」であったため、オランダの領有には全く異議がなかったようです。

オランダは、台湾統治の中心として台湾南部(現台南市安平区)に「熱蘭遮城」(現安平古堡)を築城し、1642年、台湾北部を領有していたスペインを追い出し、台湾全域を統治するようになりました。

オランダ領有時代にトマト栽培が導入されました。日本のカゴメ社が栽培し始めた1899年より200年程前になります。

台湾は「Formosa(麗しの島)」という愛称で親しまれていますが、これは、大航海時代にヨーロッパから初めて台湾に到達したポルトガル人船員が、緑あふれる島の姿を見て「Ilha Formosa!」と叫んだという言い伝えから来ています。

台南の孔子廟 明倫堂

漢民族文化の始まり

 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

1662年、中国明朝遺臣、鄭成功がオランダを台湾から駆逐し、初めて漢民族による台湾政権―「鄭氏政権」を作りました。

その時代、中国は明朝が滅び、満州族による清朝(1636-1912)の時代になっていましたが、鄭成功は清朝に反攻する拠点として台湾に政権をつくったのでした。

鄭氏政権は台湾への漢文化の浸透に力を入れました。そのひとつ、台南の孔子廟に設置された教育施設「国子監」は、台湾最高の教育機関「全臺首學」として台湾の漢文化教育に大きな役割を果たしました。

清朝時代の建物が残る「剥皮寮歴史街区」

西欧列強の波

 清朝時代(1683年 - 1895年)

1683年、鄭氏政権は清朝により反抗勢力として滅ぼされ、台湾は清朝に編入されました。ここから清朝統治時代が始まりますが、この時代、台湾の対岸である中国大陸の福建省や広東省から多くの漢民族の閩南人が移住してきました。それにより漢文化は台湾に広まり、深く浸透しました。この人たちが客家民族(オランダ領有時代から台湾で居住する漢民族支流)や原住民とともに、戦後、蒋介石国民党と一緒に台湾に移住してきた人たちが「外省人」と呼ばれるのに対し、「本省人」と呼ばれるようになります。清朝は台湾統治にはあまり積極的ではなく、その時代、目立った進歩発展はありませんでした。

1858年、清朝が第二次アヘン戦争に敗れたため、台湾の台南安平港や基隆港が欧州列強に開港されることになりました。その結果、台湾のお茶、サトウキビが海外に大量に輸出されるようになり、台湾の商業が栄えてきました。

1885年には清仏戦争があり、清朝は国防上、台湾の重要性を認識し、台湾を「省」に昇格し、その後、日本に割譲されるまでの10年間、本格的な統治を進めました。この時期に鉄道(基隆―新竹)や電報などの近代設備が建設されました。

日本が台湾を統治するために設置された台湾総督府本庁舎。

現在は中華民国総統府として使用されている

日本文化の浸透

 日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年、日清戦争があり、下関条約によって台湾は日本に割譲されました。1919年、台湾総督府が日台共学制度などの「同化政策」を進めました。いまも年配者の多くが日本語を話せるのは、この時期に日本語教育を受けたからです。この時期にはまた、鉄道建設やダム建設などの水利事業も進められました。

1937年日中戦争が始まると、「皇民化政策」がとられ、日本語の使用を徹底化する国語運動や、日本人と同じ名前を付ける改姓名、さらには志願兵制度なども施行され、宗教・社会風俗なども改革されて台湾に日本文化が急速に広まりました。

1945年、太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国に返還され、日本による台湾統治が終了となりました。

中正紀念堂の蒋介石銅像と衛兵交代式

国共内戦(1946年 – 1950年)

1946年6月、中国大陸で戦勝国である蒋介石の中華民国政府と反政府勢力である毛沢東の中国共産党との間で、内戦が始まります。1949年、内戦に敗れた蒋介石は、「反攻大陸」を期して南京にあった国民政府を台湾に移しました。ひとまず、国民党政府を台湾に移し、そこから大陸に反攻しようとしたのです。約200万人の中国人が蒋介石とともに台湾に移住したと言われ、その数は全台湾人口の3分の1を占めました。この人たちが前述したように「外省人」と呼ばれる人たちです。

戒嚴時代(1949年 – 1987年)

蒋介石の国民党による統治時代になりますが、初期の統治では「一党専制体制」という独裁統治で、ずっと戦時体制が取られて「戒嚴令」が敷かれていました。台湾人の言論、行動の自由が制限され、台湾の歴史では「白色恐怖時代」と呼ばれています。1945年より台湾は中華民国として現在に至りますが、中華民国となった初期には、本省人の、外省人支配に対する反発事件が多発しました。とくに1947年に起きた外省人と本省人の武力衝突「228事件」が台湾の「省籍矛盾」(本省人と外省人の対立)問題の元となり、現在、本省人・外省人の意識は薄くなってはいますが、いまの台湾社会においても存在している問題です。

大陸の内戦と

   台湾の「省籍矛盾」

台北市内の夜景

台湾の経済成長と民主化

戒厳令撤廃から現代

1970年代に「十大建設」計画が立てられ、高速道路や空港などのインフラ整備が進められました。貿易振興政策が台湾の経済成長にも繋がり、香港、シンガポール、韓国と並び「アジア四小龍」と称されるまでに発展しました。

蒋介石の没後、3年間副総統の厳家淦が総統を務め、1978年、蒋介石の子、将経国が三代目総統に就任しました。そして、この蒋経国時代に台湾の民主化が進められ、1987年には、「戒厳令」も撤廃されました。

1996年には、台湾初の総統選挙が行われました。本省人ながら国民党主席に就いていた李登輝が総統に選出され、李登輝のもとで台湾は本格的な民主国家へと変貌しました。

2000年の総統選挙では台湾初の野党である民進党の陳水扁が当選。初めて政党交代が行われました。

2008年に国民党の馬英九が当選して国民党政権に戻りましたが、2016年1月の総統選挙では民進党の蔡英文が当選し、5月から再び民進党政権になりました。蔡英文は台湾初の女性総統です。

台湾経済は十大建設や民主主義の確立とともに大きく成長し、さらに馬英九国民党政権に下では中国との国交が強化され、経済も大きく発展しました。その一方で、中国資本の急激な台湾進出などで台湾としてのアイデンティティの喪失が懸念され、若者を中心に「ひまわり運動」などが勃興、その結果として民進党が圧勝しました。

台北市の街並み

台湾・日本と周辺諸国の比較

■台湾の基本データ

民族閩南人(漢民族):約70%、

    客家人:約15%、

    外省人:約13%、原住民:約2%

【人口】約2300万人

【国土面積】3.6万k㎡(九州とほぼ同じ)

【2014年GDP】約5,300億ドル

【2015年訪日観光客数】367万

 

日 本

台 湾

中 国

韓 国

香 港

シンガ

ポール

人口

百萬人

126

23

1300

51.5

7.2

5.5

国土

面積

k㎡

37万

3.6万

960万

10万

1,103

716

GDP

十億ドル

4,616

530

8,250

1,417

244

308

2015

訪日

観光客数

367万

499万

400万

152万

30万

図:数字でみる台湾・日本と周辺諸国

■日本の基本データ

■中国の基本データ

【人口】約1億2600万人

【国土面積】37万k㎡

【2014年GDP】

  約4兆6163億ドル

【2015年訪台観光客数】

  162万人

【人口】約13億人

【国土面積】960万k㎡

【2014年GDP】

  約8兆2,502億ドル

【2015年訪日観光客数】

  499万人

■韓国の基本データ

■香港の基本データ

【人口】約5,150万人

【国土面積】10万k㎡

【2014年GDP】

  約1兆4,170億ドル

【2015年訪日観光客数】

  400万人

【人口】約717万人

【国土面積】1,103k㎡

【2014年GDP】

  約2,436億ドル

【2015年訪日観光客数】

  152万人

■シンガポールの基本データ

【人口】約547万人 【国土面積】716k㎡

【2014年GDP】約3,078億ドル

【2015年訪日観光客数】30万人